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by burari-skuri

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7年半前に突然ゆくえ知れずに

 いまにして思えば幸子の認知症の症状は2000年12月1日に突然行方知れずになるはるか前に現れていたのでした。悠一郎はほんとうに申し訳ないと後悔しています。ですが、いまでこそ医学が日進月歩し、総合病院には物忘れ外来という窓口がありますが、当時はなかったのです。倒れたりしたとき、救急車にきてもらうなどすれば、「なにがあったの?」と世間の目がうるさい、そんな世の中でした。

 忘れもしない2000年12月1日のことは、トンネルの向こうの一筋の光(2)に詳しく書きましたので、ここでは述べません。しかし、この日をはさんで先ずどんなことがあったかをさかのぼってみます。またその後現在までにどういうことが起こったのかを述べてみます。世の中には認知症の方の介護に苦しまれておられるご家族が大勢いらっしゃるのでご参考になると思うからです。大切なことは、そんな症状があったらすぐにお医者さんに見てもらうことです。いまだったら、病気を予防できるかも知れないのですから。なお、思い出す順序に書き足すのでごめんなさい。

便所から出たときに頭が気持ち悪いという
幸子は普段病気をしたことがない。風邪も引かない。その幸子が1978年(45歳)ごろのことだが、トイレから出たときに頭が気持ち悪いといってしばらくしゃがんでいた。そのうちなおったので、幸子も悠一郎も忘れてしまった。いまだったら、CTか、MRIですぐ原因がわかったかもしれない。

悠一郎と夫婦喧嘩をし、掃除、倒れる
書斎で単行本の原稿を書いていた悠一郎は、階下の居間でなにかいつもと違うもの音がするので降りていくと、そこにクリーナーを投げ出して倒れている 幸子を発見した。なにが原因で夫婦喧嘩をしたかは忘れたが、幸子は看護婦としてサナトリウムに勤務していたときの同僚が札幌の有名な雪祭りを観光しようと、スーツを買って張り切っていた矢先だった。1980年(幸子48歳)1月末のできごとだった。あわてた悠一郎は近くの総合病院に電話をかけ、先ずどうしたらいいかを聞いた。「動かさないで頭を低くくして、しばらく静かに寝かせてしばらく様子をみる」ようにいわれた。この日も幸子はしばらくするとなおった。

 しかし、長女の公子が首に縄をつけてでも総合病院へつれていくといってやってきた。病院では内視鏡検査も含めて、結局は正月のご馳走の食べすぎで胃を悪くしたのだろうと診断された。親戚が送ってよこした干し柿を食べて珍しく耳のヘリが膿んだりもした。

幸子は何でも器用にこなし、悠一郎は仕事一筋の背中見せ
悠一郎と幸子は、5年越しの大恋愛の結果、52年前に結婚したが、世相は忙しいことが甲斐性があるとされた。テレビ・ドラマ「オハナハン」が評判になり、これが始まると視聴率が急上昇するといわれもした。悠一郎もご多分に漏れず、子供は親父の背中を見て育つと思い、心のケアが足りなかった。ここいらへんで夫婦間の心のひだに微妙な波風が立ちつつあることに気づくよしもなかった。幸子は、料理は和食、洋食、中華、シュークリーム、プリン、ババロア、パン、何でもつくり、趣味は鎌倉彫り、編み物、彫金、反物からの和裁、果ては大工まで、何でもござれの器用さだった。

 いまにして思えば、今の時代だったらこういう才能を伸ばしてあげれたのに。そういうことに心を砕いたらよかったと後悔している。「後悔先に立たず」というのは本当だ。それなのに悠一郎は、5年越しの恋愛時の優しい気持ちを忘れてしまった。済まないと今思うのである。

兄弟姉妹のうちただ一人だけ東京住まい
悠一郎と大恋愛したばっかりに、8人もいる兄弟姉妹なかでただひとり東京へ出てきてケヤキの大木が覆う一軒家に住むようになり、悠一郎はやがて会社の調査の仕事が忙しくなり、とくに海外に行くことが多くなった。まだ1ドル360円の為替レートが設定されていた。幸子は、一人で留守を預かることが多くなった。

 それでも悠一郎は1972年にアメリカに行ったとき、幸子をJALで独り旅をさせ、サンフランシスコへ呼びよせ、ディズニーランドへ行ったり、サンフランシスコを観光したりした。独りでよくきたものだと思う。もちろん、留守中は田舎の親がきてくれた。このころから幸子は孤独を味わい始めたと思う。

海外旅行をした1990年代の蜜月時代
悠一郎は1981年に、人事が面白くなくて宮仕えが嫌になり、会社に辞表をたたきつけて退職した。十分に妻子を路頭に迷わせないだけの自信はあった。もちろん、幸子は反対だった。いまはiモードの時代で携帯電話からインターネットにアクセスし、写真を送るのが当たり前の時代だが、当時はコンピュータと聞いただけで人はぞくぞくしたものだ。悠一郎のところへはいろんな出版社や雑誌社がきて執筆を頼む状態だったからである。

 そのおかげで雄一郎は毎年のように単行本を出していたし、毎月のように雑誌記事を書いていた。1988年秋にはある財団からITに関する単行本の賞を受賞した。このことがキッカケとなって、悠一郎はこれかっらは女房孝行をしなくっちゃあと考え、幸子を連れ、1990年春のイギリス、フランス、スイス旅行を皮切りに6度にわたり海外観光にでかけた。

 歳をとると、冬が寒くて嫌だ。そこで、一番寒いときに真夏のオーストラリアやニュージーランドに10日以上旅行したのだが、幸子はこの両国がいたく気に入った。両国では2時間にわたり乗馬した。日本のように人が歩いて馬のはな先をさばき、30分もすれば「ハイ、終わり」。それで高い料金をとられるのとは違う。車でホテルまで迎えにきて、1列の馬の列の先頭と、最後に乗馬した牧場の人がいるだけ。乗馬の仕方はたずなをゆるめれば「前へ進め」、たずなを引っ張れば「止まれ」、馬の腹を拍車でければ「走れ」、右に曲がらせるにはたずなの右を手前に引っ張り、左に曲がらせるには反対に左を引っ張る。馬を操る方法はそれだけ。この方法で山あり、川あり、谷あり、坂ありの地勢を行く。この料金が3000数百円の安さであった。

 最後には1999年秋にスペイン、イタリア古代文明観光にでかけた。スペインの古都トレド、アルハンブラ宮殿、イタリアのローマ、シエナも見た。まfだ行きたいが、幸子はアルツハイマー型の認知症にかかり、行きたくても行けなくなってしまった。

 これらの蜜月旅行でニュージーランドのには1997年と1998年の日本が真冬の時期に避寒のために行ったのだが、山紫水明のニュージーランドがいちば気にいったのであろう。家のすぐ近くの美容院にいったときには(まだこのとき一人でいって帰ってこれた)ニュージーランドにアトリェをもっていて、主人と一緒に服飾のデザインをしたり、染物をしているんですよ」と楽しそうに公子が美容に行ったときに聞いたのであった。悠一郎はこの話をきかされてから「ああ、幸子の夢だったんだな。気がつくべきであった」と後悔している。

そして2000年12月1日に突然ゆくえ知れずに
ゆくえ知れずのいきさつはトンネルの向こうの一筋の光(2)を読んでください。このころは、よく取材の帰りに幸子と地下鉄駅の前のスーパーマーケットでデートをしていたが、いまにして思えばこのころから電話がかかってきたときに自分が書いたメモの意味がわからなくなっていた。

約4年間、東京・三島毎月半々の住み分け生活を送る
この突然のゆくえ知れずが発生してから、悠一郎夫婦は東京・三島の毎月半々の住み分けを始めた。伊豆箱根鉄道沿線に幸子の兄弟姉妹がみな住んでいたからだ。この鉄道沿線は鎌倉幕府を興した源頼朝流罪の地であり、執権北条発祥のの地であり、それらの史跡の宝庫なので神社仏閣を歩き、ホームページに書いていった。

 幸子は楽しそうに悠一郎と歩いて説明版を声を出して、悠一郎に唱和したものだった。だが、このときから幸子は料理をいっさいしなくなったので、悠一郎がつくった。静岡県は温泉がいたるところにあるので、温泉三昧もやった。
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by burari-skuri | 2007-03-31 21:57 | 介護・老い
自力で柔らかな食べ物も食べだす-とりあえずああよ
かった


面白いことを言って職員を喜ばせる

 地域密着型のデイ・サービスをやってくれるTK介護施設の人びとは、送迎バスに乗ってきて、部屋まであがってきて回転椅子に座ったままの幸子を二人がかりで縁側まで運び、靴をはかせ、二人でサポートしながら庭伝いに「1、2,3,4・・・・」と声をかけ、自分の足で歩くように誘導してくれます。すると幸子もやる気を出し、「4,5,6・・・」と声を出して歩けなくなった自分の足で歩き出します。こうして残っているはずの能力を引き出してくれるわけです。「生田さん。すごーい、すごーい。すごいよ」と褒めることを忘れません。木戸の外には車椅子を用意しておきます。そして、幸子を車椅子に深く座らせバスに乗せてくれます。

 施設へ着くと先ずコーヒーが出て水分を補給、おトイレへの声かけが行われます。おトイレでの介助は全介助で行われます。おトイレを済ますと、昔懐かしい歌や、ゲームや、体操など、一日のプログラムが始まります。みんな参加型のものですから、各人はやる気を出し、明るく楽しそうです。月、水、金には入浴サービスもしてくれます。
 
 11時半ぐらいになると、昼ごはんの前のおトイレへの声かけです。幸子向けには水分タップリのミキサー食が用意されます。ひとつひとつの5,6種類のおかずからご飯まで、全部ミキサーにかけてくれます。手間がかかる仕事です。幸子の口は依然として半開きですから、水分タップリのミキサー食です。

 食事前に左右両あごのマッサージと両腕のマッサージをそれぞれ1分ぐらいしてくれて、本人が自力で食べる意欲を見せるように仕向けてくれます。ミキサー食の入ったコップを唇にあてがいます。これはおいしいと認識すると、中身を自分ですすります。在宅介護をしている公子と悠一郎と情報を共有し、緊密な連絡を取りながらやってくれます。このように、いろいろとトライしているうちに、数日後のことですが、幸子は用意したミキサー食をを全部飲みだしました。TK介護施設の現場責任者は、このとき嬉しくて思わず、「ばんざーい」をしてしまいました」と連絡帳に書いてありました。とりあえずは、「ああよかった」と、みんな喜びました。

 TK介護施設の人たちは本当に献身的にやってくれています。ここのデイ・サービスに通っている人たちは、重度の認知症にかかっている人たちがほとんどです。重労働も厭わず、献身的にやってくれるここの職員たちに頭が下がります。

 幸子はスッカリ職員たちと顔なじみになり、ときどき面白いことを言っては全員を爆笑させ、「かわいいおばあちゃん」で通っています。悠一郎と公子が、ここではどんなふうにミキサー食をつくり、どんなふうに食べさせているかを勉強に行ったとき、ユーモアのある返事を幸子から聞いたときは、「生田さんが元気に面白いことをいうと、みんな励みになるんですよ」と聞かされました。

 例えばこんなことがありました。夕方近くにある職員が「生田幸子さんの血液型は何型ですか?」と聞きました。「私の血液?U型(ゆうがた=夕方)ですよ」。連絡帳には、「タイミングというか。その場の雰囲気なのか。面白かったです」と書いてありました。

口の半開きはあご関節の欠陥ではなく、食べ物を認識しないため

 TK介護施設でのデイ・サービスに先立ち、幸子はEB老健の3泊4日のお試しショート・ステイにいってきました。EB老健では本人の自力意識を確かめたいと、バナナや、袋をむいたミカンや、やわらかい菓子パンを手に握らせてみました。すると、幸子は自分でそれらを口へもってゆき、咀嚼しておいしそうに食べたのでした。

 これで、キッカケをつくれば、幸子は自分でものを食べれることがわかりました。3泊4日の退所の日、悠一郎と公子は、総合病院の歯科であご関節が正常かどうかを見るためレントゲン写真を撮影し、主治医の先生からは口を半開きにしかしないのは(アーンと口を開かないのは)食べ物を認識しないためかを診断してもらって欲しいと告げられました。

 そこで、悠一郎と公子は、幸いいまかかっているM総合病院に歯科があるので、そこでレントゲン撮影をしてもらうことにしました。撮影の結果、口腔歯科の専門医の先生から左右のあご関節とも正常に機能しているという診断書を出してもらいました。

 しかし、EB老健は慎重で手が足りないので、責任をもって幸子を預かることができるか研究
中だといっています。そして、TK介護施設の人にどんなミキサー食を造っているか聞いてもいいですかともいってきました。ここの老健は、受け入れている人たちが重度の認知症にかかって人たちが多いと聞きます。ということは、介助にそれだけ手間がかかることを意味します。「お預かりする以上は、責任をもたなくてはならない。予算的には国の締め付けがきびしい。スタッフが十分こなせるかどうか、見極めたい」。まじめなところは、そう考えるのではないでしょうか。

 詳しいことはこのブログの別項「論評」に書いておきますが、2007年4月に介護保険制度の見直しが実行に移され、予算の引き締めが始まり、介護の現場は空気がピリピリしています。ポリープと腺腫を切除し、リハビリの自立支援1のデイ・サービスを実際に受けている悠一郎には、現場の様子がよくわかります。

 この業界ほど、日本の気難しい老人たちを相手に、礼儀正しく言葉使いのていねいな、したがって個人の人格が練れている業界はありません。こういう人たちが、ほかの産業に就職したら能力を相当発揮できるのではないでしょうか。だのに、月給は他の産業より相当安く、ノルマはきついといわざるを得ません。

 みんなまじめにやっていますが、手が足りないのでは、介護の内容は標準的になりがちでしょう。手の足りなさはすさまじいものです。全国に展開している公営的介護施設は約5500で平均的に入所を待っている認知症の人たち1介護施設当たり500人以上、約30万人が入所許可を待っているのです。

公子の試行錯誤と発見ー食事時間が短くなる

  公子もなんとか食べる意欲を刺激しようと、観察と試行錯誤をくりかえしました。食事の介助は、クランベリー・ジュースから始め、次に人参ジュースを面白い話をしながら飲むようにしむけます。目が遠くを見つめているときは別世界にいるときですから何を言っても返事をしません。

 しかし、食べ物を遠くを見ている目線に合わせてかざすと、ひょっとした拍子に円実世界に戻ることがあります。コノタイミングを逃さず「お母さん、このパンはおいしいよ。食べてみる?」と話しかけると反応がよくなることがわかりました。人によって違うのでしょうが、概して朝食時はものの認識がクリアだと思います。本人は食べ物を手に持って自ら口へ持っていきます。小さくちぎって持たせることが大事です。

 こういうときは、自らミキサー食をどんどん飲んでくれます。数種類のおかずにお湯と本田氏を加え、ミキサーにかけた食事は量がわかる透明なコップに入れ、口にあてがい飲ませます。何cc飲んだかを記録しておきます。3月末のM総合病院での採血検査の結果、栄養状態は正常で問題ないという診断が出てホッとしています。

 食事の所要時間は、3月上旬には朝、昼、晩それぞれ数時間かかり、一日中食事に張り付けの状態だったのですが、いまでは毎食1時間半ぐらいに短縮することができました。悠一郎も公子にかわってスムーズにミキサー食をつくり、食事の介助をできるようになりました。

 といっても、こういうスムーズな状態が、いつ、どのように変わるかはわかりません。いま幸子はEB老健にショート・ステイにいっています。ここは、みなさんがまじめで優しいので、安心しています。 
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by burari-skuri | 2007-03-31 16:25 | 介護・老い