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by burari-skuri

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悠一郎の介護メモ-2

朝デイ・サービスに送り出す

9月22日(金) 
 今日は、Kセンターのデイ・サービスの日だ。デイ・サービスというのは介護サービス施設が提供する日帰りサービスのことで、朝9時半前後から夕方4時半前後まで認知症のお年寄りを預かり、楽しい語りや、ゲームや、イベントを催してくれるサービスだ。ケア・マネージャの立てるプラン次第で、通りいっぺんのサービスを利用することになるか、個人個人に対応したサービスを利用できるかが左右される。介護保険ガ適用され、自己負担は実額の10分ノ1である。サービスについては、悠一郎の体験をおいおい述べる。

 悠一郎は身長が170センチあるのに、ポリープと潰瘍を切除してから回復が遅々としていて体重は48キロしかない。それに対して幸子は歩けなくなってから暇さえあれば居眠り気味で、身長が153センチだのに体重は64キロもある。前から飲んでいる精神安定剤のセロクエルというクスリの副作用かもしれないというので、現在量を減らしている。

 夕べは就寝前のヨーグルトに混入した抗うつ剤と睡眠薬の服用、パジャマへの着替え、歯磨き、部分入れ歯の取り外し、トイレへの誘導も順調に終わり、布団に仰向けに寝かせて、間もなく熟睡体制に入り、今朝6時10分まで寝てくれたので、悠一郎も体が休まった。夜中に1、2度起こされて、トイレに連れて行き、紙パンツの上げ下ろし、尿取りパッドの取替えをしないで済んだからだ。

 朝が来た。幸子は珍しく、自分から「起きる!」という。「じゃあ、起きようかね」と悠一郎が合い槌をうって幸子の体を横向きにさせようとすると、いつもの朝のように、「痛い、痛い」表現が始まった。べつに痛くはないのだが、別の世界にいるのだ。「どこが痛いの?」と聞くと、「ここが痛いの」と、悠一郎の額をさすと思えば、昨日は自分のあごをさしたりする。

 この「痛い、痛い」が始まると、こちらが上体を布団の上に起こそうとすると、テコでも動かないように体をそらせる。悠一郎は幸子のうなじに右腕を回して、「よいしょ!」と起こそうとするのだが、向こうは全身の重みをかけてくる。こちらは体重が48キロ、向こうは64キロ。今朝は本人が起きる気持ちになり、状態を垂直の起こすまでに30分かかってしまった。

 これで終わったわけではない。トイレに行くには立ち上がらなくてはならない。幸子は耳がよく音に敏感に反応する。朝のミノモンタの「アサズバ」にチャンネルをまわす。彼の胸のすくような言葉がとんでくる。するとわれに返り、ものの認識機能が良くなり、自分の動作で動くようになる傾向がみられる。今朝は認識度が鈍く、時間がかかる。

 いつまでも公子に頼ってはいられない。数ヵ所のショート・ステイ・サービス(1週間から10日間認知症のお年寄りを預かり、いっさいの面倒をみてくれるサービス)が利用できるようになりつつある現在、できるだけ自分で幸子の面倒をみる練習をしておかなくてはならない。しかし、今朝は時間がかかりすぎる。とうとう悠一郎は、公子に「助けてよ」の声をかけた。

 二人がかりで抱き起こし、やっと立つたつことができた。食事作りは当番制にしている。今日は公子の当番だから、トイレの世話は悠一郎がやらなくてはならない。「大丈夫だよ。おトイレはこっちだよ」とやさしい調子で悠一郎が先にトイレの中に入り、両手を握りながら引き入れる。「くるりと回って」、「ハイ、もう一度くるりと回ろうね」と言いながら便器のまえに立たせる。

 「立ったまでいてね。ズロースとパンツを下ろすからね。まだ、まだ、まだだよ」といいながら引き下ろす間に、向こうは座ろうとする。「まだだよ。待っててね」といったが、浅めに座ってしまった。尿が床にこぼれてパジャマのすそが濡れてしまった。シャワーをして、体を洗い、パジャマは洗濯物へ。このために目覚めてから食卓につくまでに1時間がかかった。こんなことは、日常茶飯事である。

気長にやさしく

 とにかかく気長にやさしく接することが大事である。決して怒鳴ったりして、不安にさせてはならいし、孤独にさせてはならない。幸子は2歳の幼児なのだから。

 ところで、悠一郎が一人で世話をしなくてはならなくなったときに困るので、デイ・サービスのある日には、朝一番に1時間だけ食卓につくまでをカバーしてくれるヘルパーさんを探してさし向けてくれるプランをケア・マネージャさんが立案中である。

 18日の敬老の日に介護に疲れた老夫婦が無理心中をした悲しいニュースが流れた。悠一郎はへこたれず、終生現役のつもりでIT取材にでかけているし、社会に必要で生かされていると思っており、まだ収入の道があるからいい。だが、年金だけに頼っている人々の介護生活はお先真っ暗だ。それだのに、今度の介護保険改正は赤字減らしの弱者切り詰めの結果につながる。昨日床屋さんに行ったら、いままでは在宅介護を受けている人が車椅子できて待っていたのだが、介護制度の改正で時間が30分カットされたので、電話で時間を決めてヘルパーさんが車椅子を押してくるようになったという。
 
 片や社会保険庁の積立金不正免除、リゾート施設への予算の無駄使い。自民党総裁は安部さんに決まったが、戦った3人の立候補者らからは、弱者を救済し、やる気を起こさせる具体的政策は聞かれなかった。「美しい」日本をつくる」というが、言うのは簡単だ。日本文化の優れたところを回復し、やる気を起こさせる具体的政策が出てくるか否かを見守りたい。  
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by burari-skuri | 2006-09-22 15:30 | 介護・老い

悠一郎の介護メモー1

日一日衰える妻を見つめて

9月18~19日(月) 悠一郎は77歳、妻の幸子は73歳。2005年1月に金婚の日を迎えた。今日は敬老の日の翌日、19日である。今日も妻幸子は、すばらしい微笑でK介護センターの送迎バスに乗って出かけて行った。メッキリ歩行力が衰え、「ハイ。階段を上がりましょ。ハイ、もう一段あるからね」という声かけに応じながら、おぼつかない足取りでバスのステップを一段一段上がって乗り込んでいった。これで、悠一郎は夕方4時半まで自由時間を使えるわけだが、4時半はアッという間にきてしまう。
 
 悠一郎が妻に代わって料理をつくり、洗濯をし、掃除をするようになってから5年9ヵ月、介護保険制度を利用してデイ・サービスを受けるようになってから約2年。幸子の話は、だんだん会話の単語と単語の間の脈絡が他人にはわからなくなってきて、「ふんふん、そうなの。それでどうしたの?」とこちらで合い槌をうつと、一生懸命何かを訴えようと話を続けるのが痛々しい。ひとつひとつの単語は正しく、「てにおは」は正しいのである。

 子供がいない長女の公子が毎月2週間一緒に住んでくれるという話で始めたが、結局一緒の暮しは2年間ベッタリになって、その間ケア・マネージャの選択、介護施設の調査・見学・利用手続きを全部やってくれた恩恵は大きい。それを許してくれている博之君に感謝している。

 昨日は、デイ・サービスは何もなく、一日家にいる日だった。だから、朝は6時半まで眠って、ゆっくり朝食をつくった。幸子は介護度が最も高い5だ。気の向いたときは、本人が自ら茶碗やスプーンや箸を器用にもって食べるのだが、近頃は食事はもっぱら、「アーンをして」などと食べさせるのだから時間がかかる。結局、朝食が終わったのは10時半ぐらいだった。

そこで近所のスーパーへ行って夕食の食材を買うついでに、昼食はできあいの軽食を買うことにした。3年前までは関東近縁や静岡県の神社仏閣探訪に多いときは一日2万5000歩を歩く健脚だったが、いまは手をつないでトボトボ歩きだ。認知症は孤独にしておくのは、良くないので目が離せない。

 400メートルほど歩いて家に着いた。玄関前の階段をようやく1段1段上がって扉を開き玄関ホールの上がり口まできたが、今日はその1段のステップがどうしたことか、上がれない。何度声をかけてトライしても上がれない。とうとう3時間が経過してしまった。悠一郎は、胃のポリープと潰瘍を切除してからまだ完全に回復していない。、「よいしょ」と抱き上げればわけもないことだが、その力が出ない。

  近くの区の自宅へ帰った公子に電話をかけ、急遽きてもらうことにした。公子がかけつけ、声をかけると、なんのことはない。ケロッとあがることができた。「淋しい思いをさせたことが良くなかったのだ」と大いに反省した。
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by burari-skuri | 2006-09-19 15:13 | 介護・老い
治療を受けるのは生身の患者自身―よく考えること

 50何年かぶりで思いがけなくも悠一郎は病院に入院し、妻の認知症発病で介護施設というものの世話になることになったが、治療・介護を受ける患者さん自身、家族は自分あるいは自分の父母兄弟姉妹、子供のいのちがかかっていることをもっと自覚すべきだと思う。

インフォームド・コンセント

 いま病院で治療を受けるには、医師があらかじめどういう治療をするかを患者本人と家族に説明し納得し、承諾のサインをしてもらうことが当然のこととして義務づけられている。ところが、いまの医療はカタカナの専門用語のこうずいである。医師は、それを普通の人にわかるようにせつめいしなければならないのだ。

 胃の腺腫(潰瘍が進んだもので、成長してガンになる)を切除するために、悠一郎が2回目の入院をした病棟は消化器科の大部屋だった。幸い悠一郎の主治医は、懇切丁寧に、採血検査の結果、ポリープ、潰瘍、腺腫、検査時同時切除、胃の手術の違い、などなどをせうめいしてくれたから、納得できた。

 だが、大部屋に入院してみるとほかの人びとの様子が自然に耳に入ってくる。
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by burari-skuri | 2006-09-09 19:26 | 介護・老い
少年期の悠一郎

 悠一郎は、幼児期から少年期にかけては、旧満州国の日本系の銀行の幹部の父の7人兄姉の末っ子として生まれ、なに不自由なく育った。母は、美人で典型的な明治の貞女で、父が夜遅く帰宅したときも、「お帰りなさいまし」と言って玄関に手をついて迎えることを常とした。

 末っ子として生まれた悠一郎は、そんな両親のペットだった。悠一郎は幼児期から小学校低学年にかけては、病弱で腸炎、ハシカ、しょう紅熱、水疱瘡、扁桃腺、アデノイドをわずらい、病気のデパートのような存在だった。

短距離競争で一番に躍り出る

 しかし、明治の両親に育てられた悠一郎は、芯の強さを持っていて、戦時中の小学校、旧制中学校の厳しい教育と軍事教練に耐えることができた。悠一郎が少年時代に自信をつけたできごとが三つある。虚弱な小学生だった悠一郎は、1年、2年、3年生と、毎年秋の運動会の短距離競争にビリから2番目でやっとついていった。 

 4年生の秋のことである。悠一郎は寝ながら明日の200メートル競争のことを考えた。当時はいまの教育と違って、物語としての歴史があった。「壇の浦の合戦のとき源義経は、八艘跳びをやってのけた。義経が跳んだときには八艘の舟があったが、もし足が海に沈まないうちに次の足を前へ繰り出しせば、海の上を渡れるはずではないか?そのつもりで明日の運動会は走ってみよう」と思ったのである。

 結果は、すばらしかった。悠一郎はいつも運動靴をはいて走ったが、このときは素足で走った。「よーいドン!」。ピストルがなると同時に、悠一郎は夢中で跳び出した。ワーッツ、ワーッツという声がだけが聞こえた。気がついてみると、悠一郎ダントツの1着だった。

腕の激痛を押して剣道の試合に

 第二の経験は、5年生のときの剣道の試合だった。試合の数日前にチフスの予防注射があった。腕がパンパンに腫れて、あげると激痛が走った。しかし、悠一郎は試合を休まなかった。いよいよ、試合が始まる。するとどうであろう。あんなに痛い腕が、軽々とあがった。「胴(どおーつ)」。悠一郎は、試合に勝った。

演芸会の舞台に立つ

 第三の経験は、中学2年のときの演芸会だった。銀行マンはことほか転勤が多い。悠一郎の父親は、かつての今川という部下の転勤に際し、悠一郎と同学年の子息を預かることになった。彼は同じ組に編入された。当時はいまのようにテレビもなく、映画といえば白黒だった。演芸会は学校をあげての楽しい行事だった。かくし芸を繰り出せということで、悠一郎は今川君と組んで「あきれたボーイズ」のものまねをやることにした。なにしろ第二次世界大戦のさなかのことである。みんな演芸に飢えていた。

 「エサッサ!コラサッサノサッサ コレカーラはじーまるアキレタボーイズ」とものまねを始めると、先生も生徒も大喝采だった。悠一郎は生まれて初めてこんなに大勢の人を前にした舞台に立った。見渡す限り顔、顔、顔であった。その顔、顔、顔が、今日は「アハッハ、アハッハ」と笑っている。悠一郎と今川君は恥ずかしいのを忘れて無事まねをしきった。また大喝采が起きた。

 これ以来、悠一郎は大勢の人の前に立って話をするのが平気になった。これら三つの経験は、人生にとって大きなプラスになった。幸運に恵まれたこともあるが、以上、一生懸命力を出し切ること、「精神一到何ごとかならざらん」の気概、大勢の人の前で何かをする、という経験は悠一郎の人生を明るくしたのであった。

悠一郎の目からウロコ

 以上のように悠一郎の人生は、順風満帆といってよかった。しかし、いまや老境に入りこれから悠々自適というときに、順風満帆は破られた。人生とはそういうものかもしれない。突然妻が認知症にかかってから5年、妻は日に日に認知力が弱まっていき、自分は心の準備もなく、強度の貧血、入院、7つものポリープと大きな潰瘍の切除を経験した。

 入院してみて、悠一郎が目からウロコを実感したことがたくさんある。その中から三つをあげてみよう。

死に直面したときの準備ができていない

1.人は自分だけはきれいに死にたいと思う。心臓麻痺かなんかで急にぐあいが悪くなり、その日のうちに死にたいなんて思うだろう。しかし、そうは問屋が卸さないのが普通なのだ。悠一郎のように貧血を起こして立つ力を失い、駆け込み入院したのがいい例だろう。検査の結果潰瘍の中心はごく小さいものの、ガンに成長していると告げられた。

 ポリープ切除のように内視鏡切除で済み、切除は成功し、以後3ヵ月ごとに内視鏡検査と9月冒頭の外来診断で告げられたとはいえ、悠一郎としては初めて死というものを考えさせられることとなった。

 では悠一郎は死に直面したとき、その覚悟ができているかというと、死というものが怖いのを感じてうろたえた。死とは怖いものだを実感し、心の準備をしておかなくてはならないと考えている今日このごろである。死を達観するまでに心の修練を必要とするに違いない。

脳の働きを化学医薬で制御できる時代に

2.医学は日進月歩している。ひとつには、スーパーコンピュータの発達が創薬期間を短縮したからだが、新しい薬を開発し発売する期間が非常に短かくなっている。ということは、病院は舌を噛みそうな名前のクスリでいっぱいだということである。

 たとえば睡眠薬は、眠りの浅く短かく効くもの、眠りが深く長時間効くもの、胃にやさしいもの、即効性のもの、逆に緩やかに効くもの、実に多種類あって、医師が一人一人の病状を考えて処方しているということである。精神の働きに関しても、精神が安定するクスリ、抗鬱剤など実に多種類がある。

 たとえば認知症のうちアルツハイマー病は、アリセプトという進行を遅らせるクスリがあるが、これを投与すると興奮し、人によっては粗暴や、徘徊癖などを助長するから、介護の人が四六時中眠れなくなるので、睡眠薬や精神安定剤を個人個人に合うかどうかを観察しながら、一番フィットした処方と量を考えながら、医師と介護する家族、介護施設の職員が一体となって探索しているのである。

 そのうえ、認知症の場合は、患者さんの言語活動と密接な関係がある。つまり、患者さんは時間の概念、季節の概念、いま自分がどこにいるかの概念、自分の前にいる人は誰かといったことがわからなくなる。海馬は言語活動と、記憶の連動の一部を制御しているらしい。人間の精神活動も作用を突き詰めていけば部品なんだなあ、というのが目からウロコの二つ目であった。

老人よ!言うべきことは言おう

3. 入院してみて、目からウロコを実感したことは、われわれ65歳以上の老人は、「目上の人を敬う」、「人間社会の基本になることは、親と学校とが一体となって教えるべきだ。基本は万古普遍である」といったことを言うべきだということである。

 たとえば、いまの病院看護はマニュアル化しており、労働がきついこともあろうが、入院患者をもののようにあつかっている。われわれ知恵も経験も、経済力も持っている老人が、もっと言うべきことを言わなければ、タガの外れた日本は良いほうへ変わらないということである。

 もちろん立派にわきまえて、老人を敬い、言葉使いもきれいで、認知症の老人一人一人に対応した献身的なサービスをしてくれる介護施設を悠一郎は知っている。悠一郎は今度の入院で、看護師の人たちの看護を受けたが、みんな調子がよく、自分の話したあとに「うん」と、自分で合い槌を打つ。前述の介護施設で、「うん」という職員はj一人もいない。「目上の人と話しているときに、うん合いを入れることは失礼だということ」を知っているからだ。

 悠一郎は、入院している間じゅう言わなければならないことは、ぴしゃりということにした。たとえば、クスリにも食前に飲むクスリがあるが、j一つ一つをそのときそのときに持ってきて、患者に「名前を言ってください」と確認することになっている。

 ところが、悠一郎は20日間入院している間に2回も、クスリをもってくるのを忘れられた。これは基本事項であって、まかり間違えば医療ミスにつながることなので、悠一郎はすぐにスタッフを呼ぶブザーを鳴らして、当番のスタッフがくると、「食前のクスリを持ってきませんでしたね。これは基本事項なので、言っておきます」と注意した。もちろん、反駁できるはずがない。

 聞きたいことがあるので、ブザーを鳴らす。「ハイ、いまうかがいます」と返事がかえってきて、5分たってもこない。こういうときは、悠一郎は注意をすることにした。(ほかにやらなければならないことがたくさんあり、相当の重労働勤務であることも事実だ。)

 だいたい、入院している老人は、みんな重病人扱いで、言葉もそういう扱いである。悠一郎のように元気な老人は我慢ならない。こうして、うるさい入院患者になったが、かと言ってこれでサービスの内容が悪くなることはなかったし、いじわるもなかった。悠一郎は、担当医にも面会して、うるさい老人としていうべきことを言ったと、話してしておいたが、新人が多数配属になって多忙のためまごついて済まないと言っていた。 (次回)は、「1ジャーナリストが見た医療介護サービスの現場」)
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by burari-skuri | 2006-09-09 16:10 | 介護・老い