介護の現実を描きます。ITトピックスをお知らせします。旅と歴史を描いた私のHP「日本ぶらり歴史の旅」(英文もつくってあります)http://www.ab.auone-net.jp/~nut/にもぜひアクセスしてください。


by burari-skuri

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食事介護の練習

 幸子は、2週間の予定で入院したのだが、37度台の微熱が2、3日出たうえに、クスリの副作用でパーキンソン病のように後ろに倒れやすくなったので、精神安定剤の服用を一時やめ、正常に戻るのをまつために、結局、退院まで1ヵ月半かかった。O先生は、自宅に帰って在宅介護をする方法として、1週につき4回のデイ・サービス(入院前には2回のデイ・サービスを受けていた)と2回のヘルパーさんによる買い物支援(所要時間2時間)をすることを強くすすめた。

 悠一郎に異存があろうはずがなかった。ケア・マネージャが有能な人に当たったので、すぐ手続きをとってくれた。両方ともよいサービスをしてくれ、幸子も気に入っている。

 悠一郎は、在宅介護をするには、入院している間にナーシング・ハウスでのやり方を習得しておきたいと思った。幸子は、小柄で生来穏やかな気質だが、日常生活の考えや人とのつき合いは凛としており、発病後もあいさつや会話は普通にするので、第三者からすると認知症とはわからない。しかし、女性らしい観察眼をもつ公子から見ると、だんだんお茶碗や食器類をもつのがおっくうになってきているのがわかるという。

 幸子は、普段はほとんど風邪をひかないし、頭痛も起こさないから、めったに売薬を飲まない。それにくらべて悠一郎は、57年前に肺結核のため胸郭整形手術を受け、左胸の肋骨を6本切除している。冬はしょっちゅう風邪を引き、I 先生にかかることになる。

 そのI 先生のところで2004年と2005年の半ばに、区からくる無料の健康診断を夫婦そろって受けた。その結果は上々で、30いくつある検査値が全部正常だった。「お二人とも、そのまま生活していいですよ」と、結果を聞きに行ったとき I 先生は言った。だが、幸子にはわからないように、「奥さんのお病気はだいぶ進行しましたね。表情からわかります」と言った。毎日、妻と接していると、悠一郎にはそれがわからないし、無情とも受け取れ、ショックだった。

認知症の若年化

 「アーン。お口を開いて.○○さん、これを食べましょうね」と看護師(女性)が昼食を食べさせようとすると、まだ30歳台の女性の患者さんが、「あなた私を誰だと思っているの?」と言いながら一向に食べようとしない。かと思えば、悠一郎と幸子の隣には、悠一郎より年上と思われるおじいさんがおばあさんにぎこちなく食べさせている。

 悠一郎もせっせとスプーンで幸子の口へ食べものを運んだ。入院する前は、自分でお茶碗をもち、もともと器用な手つきで箸を使って食べていたのに、ここでは口をあける一方だ。「自立させなければならないのにな」と、思いながら悠一郎は、スプーンを幸子の口元へ運んだ。終わるまで20分から30分はかかる。

 スタッフは、1日3交代で手が足りない。やることがいっぱいだ。「次の仕事にかかるには、アーンをさせるほうがいいんじゃないかな」と、悠一郎は思った。

 悠一郎が驚いたことには、背広をキチンと着こなした上品なおじいさんが、毎日やってきて、仲睦まじく上品なおばさんを車椅子で中をひとまわりしていた。おじいさんは、年を聞かれると、透き通った声で「94歳」と答えていた。明治(45年)の人は、かっこいい。そういえば、幸子と同室に94歳のおばあさんが入院してきた。だが、あとの2人は前述の30歳台の女性と、「オーイ!オーイ!早く!早く!」と職員を呼ぶ70歳台に見える女性である。

 午後3時になると、オヤツだ。ちょうど面会時間なので、家族がもってきたちょっとしたオヤツを食べる。ここではオヤツといっても、昼食時に出たヨーグルトか、牛乳取っておくのだ。一人一人が栄養管理されていて、栄養過多の患者さんは、家族が持ち込んだお菓子は、許可を得れば食べられる。だからごってりしたお菓子はダメである。

 大広間には、30歳台に見える男性の患者さんが出てきて、いつも黙って前かがみに椅子に座る。40歳前後と思われる黒眼鏡の男性がいた。彼は古株らしく、まごついている新参の患者さんたちに、何くれとなく助言していた。

 さすがに、20歳台の人は見当たらなかった。しかし、読売新聞2006年3月27日号の記事によると、最近、顧客企業を訪問したあと、会社までの地図が頭のなかで白紙のように消えて帰れなくなくなり、会社を辞めざるを得なくなる認知症の20台、30台の人々が出てきたということだ。「社会がこんなにストレスづくめになったためもあるのではないか?」と、悠一郎は思う。

幸子の1日

 家にいるときは、朝起きたら夜まで寝ない生活を送っているが、病院は外界にくらべて狭いし、やることがないから、勢いベッドに寝るということになる。幸い幸子の担当には地方から東京へ研修に来たB子さんが配置され、2週間、入浴からいっさいの身の回りの世話をすることになった。初々しい彼女は、向学心に燃えているから、幸子の実に良い話し相手になり、ほんとうによくやってくれた。

 悠一郎と公子は、毎日、面会に行った。発病しないころ、幸子は近所隣のできごとや、何年かに1度まわってくる町会の役員を卒なくこなしていた。病院では、幸子の食事テーブルは、ほかの患者さんも並んで食事をする長いカウンターになっていて、金魚鉢のようにガラス越しにスタッフ・ルームの様子が眺められるようになっている。だから、幸子は中の様子に気をとられ、いちいち反応して返事をするので、食事がはかどらない。

 公子が、「お父さん。お母さんは、気をとられて一人で返事をするから、食事は部屋でしたほうがいいよ。看護師さんからOKが出ているから」とすすめられ、そうすることにした。悠一郎は、お茶碗を手にもたせ、自分で食べるように仕向けたが、なかなかそうはならない。自然、「アーン」にいってしまった。

 お茶碗にスープをじゃぶじゃyぶと入れ、おかずをスプーンで細かくして、「アーン」という。そうすると、食事がはかどる。「おいしい?」と聞くと、「おいしい」と答える。幸子は、何も言わなくても、最後になると箸を器用に使ってアッという間に平らげた。ホッとして、「おいしかった?」というと、「おいしかった」と満足気に答えた。

 ときには、職員が1グループを集めて、ボール・ゲームをやっていた。幸子もまじっていた。自分のところに風船のように軽いボールが投げられると、手のひらでポンと投げ返す。

 金曜日の午後2時からは、1時間の音楽治療だ。タンバリン、カスタネット、小太鼓、ほかの楽器をいくつか持参して、患者さんたちに鳴らさせる。「人を愛する人は 心清き人」、「夕焼け小焼けの赤トンボ」、「やーれんソーラン、ソーラン、ソーラン、ソーラン、ハイ、ハイ」、「兎追いしこの原 ふぶな釣りしこの川」といった懐かしい歌を下腹に力を入れて歌うようにすすめられる。みんなの顔が生き生きとしてくる。

 ときには、歌のうまい看護師さんが、音楽治療とは別に任意に歌いたい人を集めてナツメロを歌うことがある。ある日悠一郎は、ちょうどそのときにぶつかった。悠一郎は、幸子にときどきハモニカを聞かせる。病院でも、ベランダの病室の邪魔にならないところのベンチに座って、ハモニカを吹いて聞かせていた。ハモニカを手に持っていると、その職員は目ざとく見つけて、「生田さんハモニカをお吹きになるのね。みんなに聞かせてあげてください」と言った。悠一郎は、喜んで「夕焼け小焼けの赤トンボ」を吹いた。

 時間の過ぎるのが早かった。悠一郎と公子は、「そろそろ帰らなくては」と思う。職員が気を効かせて、「イークタ サーチコさん。ここへ座って」と幸子の気をそらしてくれる。その間にほかの職員がカギをあけてくれるので、サッと廊下へ出て家路につく。ときには、そうはいかないことがある。幸子がドアのところまで歩いてきて、一緒に出ようとするが、「イークタ サチコさんは、もう少ししてからね」と言われ、ガチャンとカギをかけられ諦める。悠一郎と公子は、胸をキュッと締めつけられた。

退院

 「徘徊はスッカリ鳴りを潜めたのだから、早く退院させたい」。悠一郎は、O先生に、「いつ退院できますか?」とかけあった。「いい案配ですよ。在宅介護をやってみますか。それでは来週の土曜日に退院と決めましょう」と、O先生は決定してくれた。「ああよかった」と、悠一郎は胸を撫で下ろした。

 退院の日は、穏やかな天気だった。幸子は、足腰が丈夫である。この病院では、退院だからといって、患者や家族からお菓子や、お礼の品などをいっさいもらってはいけない。3人は、あいさつと支払いを済まし、さりげなく退院し、タクシーを拾って帰宅した。太陽がまぶしかった。

 ここのスタッフはみんなベテランぞろいで、患者に何を言われても、決して否定的な言葉を返さない。とにかくよく働く。使命感がないとできないことだと思う。次回は、「悠一郎の入院」。
 
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幸子が退院したのは2005年12月でしたが、いま小さい庭のチューリップがあまりきれいなので、挿絵がわりに掲げました。
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by burari-skuri | 2006-04-18 11:37 | 介護・老い
 100年以上も続いたコニカ(小西六)が、フィルムから撤退することになりました。デジカメが普及し、もはやフィルムのDPE(現像・焼付・引き伸し)を頼みにくる消費者はほとんどいなくなったからです。デジカメと高機能プリンターがあれば、自分の家で写真屋さんよりもっと鮮明な写真を何枚でも印刷することができます。「デジカメ」は「デジタル・カメラ」の略です。

もう一度全家庭がテレビを買い替える時期が来る

 そういえば、テレビ放送も2008年から待ったなしにすべてデジタル放送に変わります。そうなれば今の受像機では視られないので、全デジタル受像機に買い替えるか、デジタル移行に対応可能の受像機にチューナーをつけて視聴しなくては、テレビ放送は視られなくなります。もっとも、アナログ放送は、2011年までは行ってよいのですが・・・。

携帯電話機はデジタルの実験場

 4月1日から「ワンセグ」と称する地上デジタル波放映サービスが始まりました。携帯電話でテレビ放映が鮮明に視られるというものです。そのほか携帯電話で買い物ができるクレジットサービスも始まります。なぜ鮮明なのでしょうか? 携帯電話機は、デジタルの塊であるだけでなく、新技術の実験場として格好の製品です。デジタルは情報、映像、イメージ(例えば文字)、データを0と1の連なりに変換して送受するので、アナログ信号のように途中で減衰がないからです。

プラスチックだってスクリーンになる

 携帯電話機のなかには、実はプラスチック製のスクリーンを使っているものがあります。日本の電機業界で、「LED発光ダイオード」と呼んでいる技術を使っています。安いプラスチックをテレビ・スクリーンに応用すれば、デジタル・テレビはどんどん安くなります。ところが今、メーカーは何十万円もする大スクリーンの薄型液晶テレビやプラズマ・ディスプレー・テレビをコストダウンする競争に懸命です。

 なるほど両方とも在来型テレビよりも、ずっと鮮明です。しかし、全デジタルの機能を備えていれば、当然その分だけ高価になります。とにかくメーカーは今のうちに大いに売りたいのです。テレビにプラスチックを応用するには、それなりの開発努力が必要です。プラスチック・スクリーンの基本特許は、コダックが持っています。やがてテレビ放送が全部デジタルに移行すれば、全国の全世帯がテレビを買い替えなくてはなりません。そしてメーカー間の激しい競争に突入し、やがてプラスチックをスクリーンに使うメーカーが出てきます。

 そうなると我も、我もの競争になり、デジタル・テレビはどんどん安くなるでしょう。私は、それまではチューナーで凌ぎ、安くなってからデジタル・テレビを買うつもりです。もっとも、今だってインターネット接続サービスをブロードバンド契約にすれば、パソコンでデジタルの映画を楽しむことができます。

広告業界の在り方も変わる

 スーパーマーケットやコンビニエンス・ストアやデパートは自分の店の壁や屋上にネオン・サインや電光掲示板を掲げ自分の宣伝をしていますが、英誌エコノミスト2006年テクノロジー四季報(3月11日発行)によれば、アメリカでは例えばウォルマートが「デジタル・サイネジ(Digital Signage)という巨大なフラット・パネル・ディスプレーを取り付けて、自分の宣伝ではなく、いくつもの会社の広告やニュースやエンタテイメント(娯楽)を絶えず繰り返し映し出す計画です。これらの情報は、人工衛星か、インターネットを介して簡単に更新することができます。

 こうなると巨大なスーパーが広告業界入りするわけで、広告会社はうかうかしておられません。日本にも遠からず「デジタル・サイネジ」は浸透するでしょう。デジタル革命のキーワードは「何でもハッキリ」ということです。
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by burari-skuri | 2006-04-10 17:00 | ITトピックス
入院

 それから2週間後の水曜日に、A医療センターから男の人の声で「その週の土曜日に入院してください」との知らせが入った。「お待ちしています」。老人に接するときのひとつの要件だが、言葉遣いはていねいで好感がもてた。

 すべての職員がそれを自覚している。たとえばエレベーターのおばさんは、降りる人びと一人一人に向かって、「いってらっしゃい」という言葉を忘れない。これだけで老人たちは安心する。ひとたび診断を受ければ、あとは意外とスムーズにことが運ぶようだ。悠一郎がかかりつけの開業医のすすめに従って、藁をもつかむ思いで、「もの忘れ外来」の一般受付に予約初診の電話をかけたときは9月の下旬だった。やっとつながった電話の向こうからは、「予約がいっぱいで、初診は来年の2月になんですよ。済みませんね」と、あらかじめていねいに断られた。

 そこで悠一郎は開業医のI先生に実情を話した。すると先生は、ちょっと考えてから、「それじゃあ一般受付の神経内科からいってみますか」と、予約受付の電話番号を教えてくれた。悠一郎はさっそく電話をかけてみたところ、すぐ電話がつながり、初診予約も順調にとれたのであった。

 それから約1年、認知症に効く画期的なくすりと言われたものの、結局は認知症の進行を遅らせるとみなされ、それも個人差があって経過を見ないと効くかどうかわからないと言われる「アリセプト」を飲んできた結果、アリセプトは幸子には向かないから投与をやめて、精神を安定させる薬に代え、生活のリズムを取り戻すために入院しようということになったのである。現在はO先生の方針でリスパダールをセロクエルに代えた。とにかく便秘は撹乱要因らしい。

 ナーシング・ハウスの1日

 幸子のナーシング・ハウスは2階フロアにあり、入り口のドアにはインターフォンがとりつけてあり、カギをかけてある。患者さんの徘徊を防ぐためである。事実、悠一郎と公子は幸子が入院してドアの中に入った初日からパジャマにショールダーをかけた小太りの女性に呼び止められ、「私、これから会社に行かなければならないのですけど、1階に出るにはどうしたらいけますか?」と聞かれてまごついた。

 黙ったままでしょっちゅうフロア内を歩いている患者さんがいた。かと思えば、「おーーい、おーーい。きてくれよー!早く!早く!」と大声でどなる車椅子の女性の患者さんがいたり、もっときつい表現でしてもらいたいことをひっきりなしにスタッフに求める男性患者さんがいたり、さまざまである。奥のほうの部屋は、重い患者の部屋、入り口に近いほうは体が自由に動く人か、軽症の人の部屋らしかった。何しろ、認知症は個人によってさまざまな症状である事実を痛感させられた。

 おおまかな日課を述べれば、9時起床、入浴できる状態であれば、スタッフが入浴させてくれる。健康体操。昼食後は、ちょっとした手芸やぼーるなどのゲーム。そうこうしているうちに、2時から面会時間(家族は原則を守りつつ、いつでも)。金曜日は3時から1時間「音楽療法」。夕食語、9時には就寝。この繰り返しである。

 音楽療法は、音楽専門家の先生がきて、昔懐かしい小学校唱歌や、「人を愛する人は 心清き人」、「小さい秋見つけた」といった懐かしい歌を面会者たちと一緒になって歌う。患者さんたちの表情が生き生きとしてくる。

 つづく(次回は「退院」)
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by burari-skuri | 2006-04-05 11:31 | 介護・老い