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by burari-skuri

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ある日突然

 あれは、忘れもしないいまから4年9ヵ月まえの2000年11月30日と12月1日のできごとだった。悠一郎と幸子は、東武百貨店池袋店に同時注文しておいた眼鏡ができたので取りにでかけた。自宅を出てから、バスに乗って終点池袋までは、わずか30分の近距離である。悠一郎夫婦は眼鏡を受け取ったあと、喫茶店でコーヒーを飲んでから別れた。悠一郎は、春秋2回の旧制中学校(旧満州新京一中)の在京生クラス会に出席するためだったが、幸子を池袋の始発バス停まで送り、並ぶのを見とどけてから、自分はサンシャイン60の会場へと足を向けた。

 始発バス停まで幸子を送ったのは、近頃、彼女が外からかかった電話をメモしておきながら、どこの誰さんからかかってきたことを書き落として、悠一郎から聞かれても思い出せないことが時々あるからだった。楽しいはずのミーティングに出ていて、悠一郎は何か胸騒ぎがして、落ち着けなかった。彼は、ミーティングを中座して、家路を急いだ。

 家の玄関が見えてきた。だが、人の気配を感じない。「あっ!まだ帰っていない。いったいどうしたんだろう?」。気が動転した悠一郎は、駆けるようにして近所の心当たりを探してまわった。「やっぱりいない」。ギクッとして、悠一郎はその足で交番へと走り、池袋の交番へ取って返した。「大丈夫、二日のうちに、きっと見つかりますよ。それで見つからなければ、次の段階だけれどね」。こう年配のおまわりさんは言った。

 静岡県に住んでいる妻の末弟にだけ電話をかけ、「そっちへ幸子が立ち寄っていないか?」と聞いただけだったが、末弟からことの次第を聞いた静岡県の妻方の親戚がみんな集まってきた。「有り難い」。こんな経験がない悠一郎にとって、親戚がきてくれたことは、涙が出るほど心強かった。その日は、何もなかった。

 翌朝早く、所管の警察署へ長女と行き、正式に全国へ連絡をとってもらった。担当部署は少年課。聞き取り調査をした担当者は親切だった。「二日たってもわからなかったら、心配だが、きっとみつかりますよ」と言ってくれたのが嬉しかった。

 幸いにして妻の服装を帽子から靴下まで逐一憶えていたので、全国の警察署、交番、バス会社などへその情報が流された。2000年にスペインの古都トレド(世界遺産)の丘に立ったときの写真も流されたはずだ。昼前から午後にかては、親戚一同とともに、写真をコピーして、鉄道関係の池袋駅のオフィスを足を棒にして回り、「こういう人間を見かけたら、すぐに連絡して欲しい」と頼み込んだ。「いいですよ。ご心配ですね」と、オフィス内に貼り出すことを、みんな快く引き受けてくださった。

 二日目もなんの連絡もなく,日が暮れた。重苦しい空気が、親戚の顔、顔にただよった。そこへ真夜中の12時半ごろ、竜ケ崎警察署から電話がかかってきた。「もしもし生田さんのご主人ですか?奥さんがみつかりましたよ。奥さんは、大変お元気ですよ。それで、どうしますか?迎えにこられますか?」、「有り難うございます。これからすぐタクシーで迎えに行きます」。「ああ―良かった」、みんな安心して、腰が抜けるようであった。睡魔が,ドッと襲った。
 
 悠一郎はとっさに、「みんなどうも有り難う。これからすぐ迎えに行ってきますが、幸子の顔を見たときには、優しく迎えてやってください」。こう言い残して悠一郎は、娘を伴い、表へ急いだ。

 竜ケ崎警察署へ着いたとき、妻はきわめて元気だった。おまわりさんが五、六人、一階のオフィスに座っていたが、みんな晴れ晴れしい顔で、「奥さんは、お元気ですよ。ほんとうに良かった」と言ってくださった。

 昼間は、大勢の人々が行き交う。だから、そのなかに埋没して、なにかしょんぼりした人間がいても目立たない。目立つのは夜の10時からだ。幸子を、「上品なおばあさんが、一人ポツンと終バスに乗って、終点まできた。服装は、流されている情報にピッタリだ」と、警察へ知らせ、係官が保護のために引き取りに行くまでもてなしてくれたのは、当のバスの運転手さんだった。

 日本社会は、捨てたものではない。日本の警察は優秀だし、社会の大部分は、正常に回っている。悠一郎は、警察に、バスの運転手さんに感謝した。

この寒空に

 幸子は、家についたとき、田舎の親戚がみんな来ているのにビックリした。自分が行方不明になったこともわからなかった。翌朝、親戚は潮が退くように帰っていった。

 悠一郎が警察署へ迎えにいったとき、幸子の手にはボロボロになった東武百貨店の眼鏡が入った小さな紙袋が残っていて、眼鏡も入っていた。12月1日未明は、12月とはいえ、暖かくポツンポツンと雨が降っていた。紙袋の中から3枚の領収書と1枚の都営地下鉄のチケットが出てきた。午前4時雑司が谷のローソンで、メイトー ザクッチョ カクギリ リンゴと、モリナガ コエダ 計205円を買っている。同じ日の朝7時に同じ店でビニールの傘205円を買っている。悠一郎がサンシャイン60の会合に出ていることを覚えていて、その近くの雑司が谷までいっていたのであろう。

 もう1枚の領収書は、田町センタービル内の「東花房」のもので、午後1時にSベーコン880円を食べている。そして、チケットはそこの地下鉄始発駅(三田)から出ている板橋本町までのものだった。それからどうして龍ヶ崎行きのバスに乗ったのかわからないが、多分、「先に家に帰っていてよ」と言い残して別れたのが、ふと場面が変わり、悠一郎の姿がみえなくなったので、「あれっつ、おとうさんはどこへいったんだろう?」と捜し求めたがみつからないので、家に帰ろうとして家に近い板橋まできたのであろう。

 「この寒空にどうやって一夜を過ごしたのだろう?さぞかし淋しく心細かっただろう」。悠一郎は、キュッと、胸が痛んだ。このボロボロになった東武百貨店の紙袋を、悠一郎は宝として持ち続けている。

 その後幸子の病状は、一進一退し、徐々に進行している。しかし、いろいろな人々からのアドバイスを得て、介護保険の適用を申請し、一ヵ月前からデイ・ケア・サービスを受けるようになり、日本にもこんな優れた社会制度があるんだな、と思い始めたのが今日、このごろである。
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by burari-skuri | 2005-09-17 19:40 | 介護・老い